「自己喪失中」の日本

今回管理人さんに依頼をしまして、四回に渡って記事を投稿させて貰うことにしました。やまねろんと申します。
こちらや進撃の方で各具体論は積極的に議論されている一方、もうちょっと離れた視点、日本全体としての調和であったり、長期的な視点の議論が少ないかなと思いまして、問題提起を込めて記事を書いてみました。
内容としましては、なるべく国を人間と見做した視座から、日本自身の問題点に焦点を当ててみたものになります。一回目は導入的な内容につき硬めの文で済んでいるものの、三、四回目は結構くだけています……が、どうかお付き合い下さい。

 

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近年「日本は凄い」という趣旨の番組がちらほら放送されていたり、日本人の誰かが世界のどこかで偉業を成し遂げたりすると、大概「世界に認められた」という枕詞が付いております。
日本という存在が何かをした場合には、決まって「世界の反応は?」というものが続きます。

こういった指摘は昔から外国人によってされているようですので、他人の視線が気になるのは日本人の特徴と言えるかもしれません。しかし、枕詞の如く「世界の反応は?」が付いて回るのは、少々問題がありそうです。

 

さて、他人の反応を気にするのはどんな時でしょうか。

 

相場としては、不安な時、自身が無い時が有力かと思いますが、有利に事を運ぶため、欺くためという戦略的な場合もありますね。
ここで日本の情勢に目を向けて見ると、失われた20年、日本は自信を喪失して内向きになったという事が言われていますから、自信が無くて不安なんでしょう。

それでは、なぜバブル崩壊後の日本で自信が喪失して行ったかと言うと、一つは手本となる対象が無くなったからと言えます。もう少し根源を辿ると、幕末以後「自己」を捨て続けた挙句、「自己」を見失ってしまったからということになります。

 

少々話が繋がりにくいでしょうが、続けて現在の「保守派」や「嫌中・嫌韓派」に着目してみましょう。口先では自律・自立したいと主張するものの、米国や韓国、中国がいなくなってしまったら困りそうな程に執着していますね。どうやら、求めているのは依存できる存在のようです。

どうも日本は依存したくなる傾向が見て取れそうなので、ここで少し日本の歴史を振り返ってみましょう。

 

遣唐使を廃止するまでは主として古代のシナを手本として文化を採り入れ、明治維新の辺りでは西洋を手本として近代化し、敗戦後はアメリカの文化に憧れて発展して行きました。つまり、大きな変革があった際には、どこかの国を追っ駆けていれば良かったわけですね。
しかも、基本的にそれらは植民地のように他国から強制されるわけではなく、自ら主体的に学んでいきました。恵まれた環境で自己研鑽をしていたわけです。

しかしながら、高度成長期を経て「先進国」となった頃から、追い駆けるだけで良い手本は……なくなりました。欧米と肩を並べるようになり、また多くの国に追い掛けられる立場となったために、今度は日本が独自の価値観を模索して主張するなり、手本を示すことが必要になりました。事実、外国は建前の上では、先進国らしく日本の立場をきちんと示すよう要求していますよね。たとえ裏では建前と相反する嫌がらせをしていようとも。

 

それにも係わらず、国民、言論、メディア、政治、産官学どれをとっても、欧米の追随が目立つのが現状かと思います。独自の価値観の追求、それを世界へ向けて発信しているわけではありません。なにせ、日本が自身のことを良くわからなくなっていますし、明治維新と敗戦後とで「自己否定」をしましたし、「自己」を整理する気も定める気もありません。

衣食住をはじめとした文化の流行に着目すれば、日本が欧米に憧れ、欧米を恰好良い対象として見ていることの根強さがわかります。これは幕末から変わっていません。外国のブランドを有難がる風潮、外国語や外来語の方が「スマート」に感じる風潮が溢れていますよね。

確かに明治維新の頃は西洋に憧れることが、敗戦後はアメリカに憧れることが発展の原動力となりました。しかし、裏には遅行性の弊害が隠れていたんです。

 

それは「自己の喪失」と依存グセです。

 

大正頃にも敗戦後にもその弊害に警鐘を鳴らす方は少数ながらいたにも係わらず、全体としては見向きもしませんでした。「日本を取り戻したい」と主張するのならば、そろそろ正面からそれに向き合うことにしましょう。
その時に大事なのは、過去と同じ轍を踏まないためにも「自己否定」をしてはなりません。どんなに情けない、恥ずかしい過去であろうと、「自己否定」をしたら過ちから学ぶことも本当の意味での再起も図れません。自己正当化の罠から抜け出せなくなってしまいます。

 

また、世間では「日本は劣っているからダメなんだ」とすぐ卑下するうつ病的な雰囲気も流行中ですが、それぞれが良さと悪さを持ち合わせており、絶対的にどれかが優れているわけではありません。設定条件という枠組みが定まった際に、相対的な優劣が着くことがあるだけです。そこには、向き不向きという要素も加わることになるわけです。無論、主観を排することが不可能である以上、設定条件というものは常に恣意的ですね。

 

果たして、日本は何に向いているんでしょうか。何を選べるんでしょうか。何を選びたいんでしょうか。


このユーザーがいいねしています

  • コテヤン@どうやら管理人
  • charleyace

「「自己喪失中」の日本」のコメント一覧

  1. 1
    holyfirework 灯火  :

    日本は敗戦によって、日清戦争以来の自信を根こそぎ失いました。
    まさに、一億総萎縮とも言えるような状況です。

    しかも、米軍駐留によって、その思いや不満はどこにもぶつけられないまま、右派は米国依存へ、左派は自己否定(自虐史観)へと変質していきました。現在および戦後政治の迷走は、ここに原因があるのではないでしょうか。日本のとるべき道は、他国の干渉を廃し、他国の言いなりにならず、他国の脅しや、非常識な言い掛かりに屈することのない、自律国家であり、真の独立国家です。

    そのためには、他国に頼らず、他国の脅しや嫌がらせにビクビクしたり、屈したりしなくていいだけの裏付けとなる軍事力を持つことが、必要なのではないでしょうか。
    軍事力を高め、経済力を高めて、日本人に自信を持たせ、日本国に誇りを持てるような国にすることが、日本国と日本人の明るい未来の為に必要なのではないでしょうか。

  2. 2
    やまねろん  :

    >>灯火さん
    コメント有難うございます。
    個人的には、殴られたらその相手を殴り返したいと思う性格ですので、外交上対等になりたければ軍事力を持つのが手っ取り早いだろーなー、と思います。
    しかしながら、自己と自信の喪失に関しては、軍事力を持った所で回復はしないと考えています。

  3. 3
    コテヤン@どうやら管理人 コテヤン@どうやら管理人  :

    これは大変おもしろい記事だなぁと。
    なるほど、考えてみますと反グローバリズム・反新自由主義陣営側の人たちってそもそも「人に褒められたいからそれをやってる」訳でもないし、私自身もそうなんですよね。
    失われた20年間を虚心坦懐に振り返ってみると、その態度が正しいと信じるからこそやってるわけで。

    ところが日本という自我はそう言った「評価されなくても、虚心坦懐に歴史を見つめればそれは正しい態度なのだ」という道徳心といいますか…そういった芯があやふやになっている気がします。

    義を見てせざるは勇なきなり、と申しますが勇とは誇り、自尊心、道義心の話なのだと思います。
    誇りがなくても飯は食えますが、誇りがなければ方向性はあやふやになってしまうのかなぁ、とか考えたりしました。

  4. 4
    やまねろん  :

    >>コテヤン@どうやら管理人さん
    コメント有難うございます。
    社会性と感情を完全に除外出来ない以上、「他人に評価されたい」という欲求を消すことは出来ないし、消してはいけないと思います。
    しかーし! 他人に評価されることが最上位の目的となり、且つそれが単発ではなく慢性的にその状態に陥ることはダメだと思うんですよ。

    金銭でも同じですよね。ある所までは生きていく以上必要だが、一定の所を超えると、幸福度に差はなくなって行きますね。むしろ稼ぐ程に貧困と同程度まで幸福度が下がってしまう場合さえある。

    こうやって人に例えてみると、違う方向性からも考えられるようになると思った次第です。

  5. 5
    コテヤン@どうやら管理人 コテヤン@どうやら管理人  :

    >>やまねろんさん
    >社会性と感情を完全に除外出来ない以上、「他人に評価されたい」という欲求を消すことは出来ないし、消してはいけないと思います。

    たしかにその通りですね。

    >しかーし! 他人に評価されることが最上位の目的となり、且つそれが単発ではなく慢性的にその状態に陥ることはダメだと思うんですよ。

    これ実はそうなるのもすごくわかりますw
    YouTubeに動画を上げると、無茶苦茶再生回数が気になるんですよw
    (最初の頃の話ですがw今は「どうやって再生回数あげてく?宣伝していく?」という数字的な話でしか見てないんですが)

  6. 6
    やまねろん  :

    >>コテヤン@どうやら管理人さん
    やっぱり、どれだけ見て貰えているのか気になりますよね。
    そして「どう改善していったらいいのやらー」とか。当事者になると、大抵視野が狭くなっちゃうのは人の宿命だー、と思っています。

    今回記事を投稿して毎度思ったのは「改行の位置直したい……」でした。

  7. 7
    コテヤン@どうやら管理人 コテヤン@どうやら管理人  :

    >>やまねろんさん
    改行の位置「管理画面から投稿」→「投稿一覧」から編集で直せますですよ~w

    >そして「どう改善していったらいいのやらー」とか。当事者になると、大抵視野が狭くなっちゃうのは人の宿命だー、と思っています。

    そうですねぇ確かに。
    そのために数字などの客観的データが必要なのかも…マーケティング的な感じで。
    でも大衆や国民がそうなるというのは、非常に難しい話で…う~ん(頭こんがらがってきましたw

  8. 8
    やまねろん  :

    >>コテヤン@どうやら管理人さん
    >改行
    やり方を教えて頂き有難うございます。改行の位置やら直してみましたー。

    >大衆や国民がそうなるというのは、非常に難しい話
    施光恒氏の『英語化は愚民化』でも言及されていますが……聖書のラテン語から土着語への翻訳、明治維新の教育の普及……どちらも上位層の一部が、大衆や国民が賢くなるための後押しをしたわけですよ。
    大切なのは「成長する」「育てる」の連鎖でしょう……うん、どちらの心も今の日本には欠片も無いっすねー。