左派と右派の見失ったものは本質かもしれない

>>ブログランキングで政治記事チェックor応援クリック昨日のデモの意味についての考察からデモで社会は変わるのか?という問いかけという昨日の記事で私は、「デモとは一揆や反乱といったどうしようもない不満の表明を、民主制下において非暴力的にデモンストレーションしたものじゃないか?」と書きました。 実は昨日、この考察を終えたあとで政治談義をリアルにしてまして、その中でふと及んだことがあります。「そういえば・・・クラウゼヴィッツも中世の貴族同士の戦争を”制限戦争”と定義していたなぁ」と。これは簡単に言えば戦争を儀式化、ルール化、スポーツ化、ゲーム化したと表現可能です。1つは貴族の保身などの理由もあったのでしょうけれども、しかしルールを共有することで戦争の災禍を抑制し、無駄に暴力的になることを抑止していたわけです。これを「戦争の儀式化」と呼ぶとすると、デモも一種の儀式化されたも...

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