保守とはなんだろうか?【転載】

先日、進撃の庶民さんの【実践主義】藤井聡教授【影の奉仕】のコメント欄で大変興味深い議論がされていました。
ちなみにこの記事のタイトルは中野剛志氏の著作と一緒ですが、気にしないでください(笑)レビューではありません。


その中で議論されていたことが正に「保守とはなんだろうか?」と言うことです。
色々定義の仕方があろうかと思いますが、コテヤンは考えているうちに「ネーション(共同体)を大事にする姿勢では?」となりました。
例えば議論の中にあった「自分たちの国を自分たちで守ること」も「自分たちの共同体を破壊されないように務めること」と言い換えられますし、例えば共同体の中、という意識があるからこそ「同じ共同体の人に優しくする」事もできるのだと思うのですね。

文化や伝統、歴史や慣習についても「その共同体を大事にし、属する上で」知っておかなくてはならなかったり、むしろ「その共同体を大事にする理由」であったりするわけです。

では革新、リベラリズムとの違いは何なのか?というと、リベラリズムは共同体が最上位概念ではなく、人権や自由といったものが最上位の概念にあるのだと思います。
こう考えると新自由主義が「ネオリベラリズム」と呼ばれていることも納得がいきます。

では自由や人権というものと、共同体は対立概念なのか?といいますと、実はコテヤンはそ~言うふうには考えておりません。
むしろ共同体の中にこそ自由や人権というものが発現するのであり、これをなくして「普遍の概念としての自由や人権」が存在するわけではないと考えます。
(リベラルナショナリズム、という学問分野だそうです)
人が集まり、寄り添い、社会やコミュニティ、共同体や国というものができ、それが発展して自由や人権という概念を実効的なものにしていると思うわけです。
逆に言えば同じ国の中でも言語、習俗、文化が大きく異る2つの集団があるとすれば、それは互いに反目し互いに自由や人権を認められない可能性が高いと思うわけです。
それは例えばおとなりの朝鮮半島の両班と白丁という身分制度、文字制度の分断の歴史にも見て取れますし、ラテン語と土着言語というヨーロッパの歴史にも見て取れます。

逆に明治維新において何故日本にそれほど民主主義が早く馴染んだのか?と考察してみても、1つは共通の言語を使い、識字率も高かったということが理由としてあげられると思います。
また文化面から論じても、江戸時代は数多くの大衆文化が花開き、隆盛を極めました。
これは身分制度によって抑圧され、搾取されているような社会体制では決してありえないでしょう。

こう考えていくとリベラリズムというのは、本来保守の中に内包されている一部分なのではないだろうか?
その一部分をことさら理想主義的に肥大化させたのが、過激なリベラリズムなのではないか?と思うわけです。

更に論じてみますと、保守というのは国という共同体の中で、自分たちにあった人権や自由、習慣、習俗を擁護しますが、他国に対して押し付けた瞬間にそれは「他国にとってのリベラル」になるという点を自覚しなければならないのかもしれません。
本来、内政干渉がダメなものとされているのも、こういったことからなのではないか?と思うわけです。
(そういった意味では日韓併合と言うのは、リベラルな政策だったのかもしれません)

リベラリズムが本当に人権や自由を、世界共通の概念にしたいのであれば、1000年という時間を費やし国と国の距離が更に近くなり、いろいろな文化や習俗、認識、そういったものが融和した時代のために尽くすべきかもしれませんし、民主主義が浸透してきてまだせいぜい200年程度のこの時代に、無理矢理に声高にネーションを無視する愚行は避けるべきなのだと思います。
実際に世界が人工的にネオリベラリズムを進めた結果、世界中が不幸になり、ナショナリズムの台頭が自然に発生しているのですから。


コテヤン@どうやら管理人
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